2010.9.19
越後。~鮫ヶ尾城 の記事の続きです。
時間的に直江津からバスに乗った方がいいのか、高田から乗った方がいいのか…調べて、高田の方からバスに乗りました。
高田からのバスは、駅前にありません。行かれる方は注意してください。
とりあえず、バスに揺られ大体30分弱。
運転手さんに「春日山荘」で降りると良いよ。と教えていただき下車。
上越市埋蔵文化財センターでとりあえずトイレ休憩(笑)
どっちに向かえばいいんだ…と、またもやGPS。便利だ。
やっとこ、大手道と春日山城入り口に遭遇。
ここで、案内の地図を貰う。貰わないとさっぱりわからない。
地図を見ると、大手道から巡るのは時間的に厳しそうなので、春日山神社の方から巡るルートを選択。
ゆるゆると登る坂道の手前に、何やら数名のおじさま達がポリタンクやらペットボトルやらで水をくんでいるので覗いてみれば「謙信公出陣 御前清水」
へーと、眺めていたら「汲んでいくかい?」と譲ってくれたので、手持ちのペットボトルに汲んでいたら「ほえ?」という顔をされた。どうやら、大きいので汲むお仲間だと思われたらしい…。
御前清水も頂いたし、さて出陣!は、いいのですが、舗装されたゆるーい坂道がだらだらw
ここで判明したのですが、私、舗装されたゆるい坂道が苦手らしく、登り終わった所の謙信公像にたどり着くまでに、左股関節に激痛(よく起きるなあと思っていましたが、これ以降同じようなところで必ず痛めますT_T)
痛み止めを飲むか、それとも手持ちのボルタレンを貼るか悩んで、貼った方が良い!とペタリ。
判断は正しく、本格的な登りの前には痛みも収まり、ほっと。
あまり時間もなかったので、謙信公像から、ゆるーーい登りの道を行き、三の丸から本丸へ行くコースを取りました。
ここから登り口だよ。というところに、甘糟近江守の屋敷との看板があるのですが、どう見ても小さい小屋が建てられるレベルの広さでしょ?!なのですが…。きっと昔は今登ってきた道がもっと狭くて広かったんだろう…と思うことに。
登ると左手に、三の丸景虎屋敷跡、
右手に、米蔵跡があります。
米蔵跡は、ちょっと入ると、こんな感じで土塁にぐるりと囲まれているため、米もそうですが、武器等も保管されていた場所だったのではないかと言われているそうです。
土塁の向こう側は、縦堀という空堀になっていますが、現在は草が生えていてわかりません。
ただ、この草がなくなったら登って攻め入るのは大変だったのでは?と予想ができる大きさです。
謙信公没後、いち早く実城を取った景勝が多くの金や武器を手に入れたとの話なのですが、景虎の屋敷のこんなに近くに保管場所があるのに?とちょっと疑問も。
三の丸ではなく、二の丸の方に景虎の屋敷があったのではという説も。
二の丸を飛ばして、毘沙門堂、お花畑へ。
実際に立っていた場所とは違う場所に立っていますが、サイズ的にはこのくらいだったとか。
薬草や珍しい花等を栽培していたようです。
ゆるゆると階段等を登って、本丸跡に到着。
本丸跡から二の丸(真ん中辺りの平らな看板のある場所)三の丸(その向こうの杉の何本も生えている場所)を望む。
御館の乱の際に、景勝が三の丸の景虎の屋敷に向けて鉄砲を撃ったという話もありますが、こうして見ると位置関係がわかりますね。
この日は、晴れていたので、直江津の海が見えました。
天守台がなかったのに、天守跡とはこれいかに。写真の奥が天守跡。
天守跡から、妙高方面を望みます。鮫ヶ尾城とは逆パターン。
本丸と天守跡の道を降りると井戸曲輪です。
かなり高い位置あるにもかかわらず、未だに水があります。サイフォン式の原理で水が湧くのだとか
井戸曲輪から本丸へは、石垣はありませんが、油流しという急な坂になっています。
井戸曲輪から降りて行くと、景勝屋敷があります。こちらかなり広い。
子飼の家臣の屋敷等もあったのではないかな?という広さ。
景勝屋敷から御成街道を行くと二の丸に出ます。ここは、台所があったのでは?と言われている場所。小さいながらも井戸というか湧き水らしきものもあったり。
だいぶ、薄暗くなってしまったので、急ぎ足で戻ります。なにせ、足がバスしかないのでそりゃもう逃したら大変w
下から眺めた、春日山城。
やっぱり広い。
そんなこんなで、移動のためお屋敷跡やら春日山神社や林泉寺をショートカットして降りるも、バス停への道がわからず途中で、真っ暗な中、タクシーを呼ぶはめに…。
旅は計画的に…
とりあえず、この時の写真はこちらのフォトアルバムに。
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